2015年4月27日月曜日

若冲さんが石峰寺・五百羅漢で目指したもの、に会いに

27°を超える、真夏日です。

若冲さんが晩年、過ごされた最後のアトリエであり
1776年から、1000体を超す石仏(五百羅漢)制作を指揮した
晩年のライフワークのフィールド、深草の禅道場・石峰寺さんに行ってきました。



若冲さんは、五百羅漢で何を目指し、達成したのか?
そして
なぜ、この地だったのか?

を、例によって「体感」するために
本日の「あるき若冲」、スタートです。



1786年に刊行された「都名所図会」に掲載された、当時の石峰寺。
もうすでに「石像の五百羅漢」という記事と仏殿の上には、石仏が描かれています。
現在の19代住職とお母様にお話を伺ったところ
以前のお寺の敷地は、約25000坪ほど、
この図だと左の山の上まで、7つ伽藍があったといいます。
若冲さんが亡くなられて以降は、だいぶ荒れていったようで
石像の半分以上や、寺宝の多くが売り払われ
(このあたりも、片瀬五郎さんのブログに素敵な詳細記事があります)
さらには廃仏毀釈のさなか、
明治8年には、上知令により
若冲さんの天井画が描かれた観音堂(若冲さんの3rd アトリエがあった場所)も
解体され、軍人の墓地をつくる名目で新政府に取り上げられ、
現在は深草霊園となっています。

本堂には、
野菜による巨大な涅槃図もあったそうです。

おや。

海外に渡り、行方不明という風に伝えられています。

それって。

サイズ(181.7 × 96.1 cm)や推定制作年代(1779 ~ 1782年)からしても
何より、そのタッチからしても
現在、京都国立博物館にある


これのこと、なんじゃない?

と考えるのが自然な気がします。

この涅槃図に関しては、別の伝承も残っています。
若冲さんのお母様が80歳で逝去された1779年、
ご供養のために、これを描き、伊藤家の菩提寺・宝蔵寺に寄進。
そこから今度は、そのご近所の誓願寺に上納されたというもの。

う~ん。

いづれにしても、こちら
藤原忠一郎さん寄贈となっているので、
明治22年、相国寺から宮内庁に1万円で献納された「動植綵絵」のように
下腸されたものではなく
個人蔵。
それも、兵庫の方の。
ここに至るまでの経緯と出処を、ぜひ詳しく知りたいものです。
今度、学芸員の方に聞いてみよう。


さて、その若冲さんの五百羅漢も
土中に埋まっていたり、荒れていたようですが、それを直されたのは
ご住職の曾お爺様だったそうです。


1789年(若冲さん74歳)の作とされる「五百羅漢図」(個人蔵)です。
いわゆる、デザイン画、もしくはコンセプト・アート。

もろもろの事情により、いろいろお許しを頂きに
若冲さんの眠っておられる墓前へ、ご挨拶してから、
コンセプトアートの「遊戯」(実際は「遊戯通神」だったそうです)と書かれた門を模した
ここをくぐります。


この先に五百羅漢が並んでいますが、
撮影禁止とされているので、ここからはテキストで失礼します。

現地で見くらべてみると、数も少なく(約430体)並びも違う感じです。
(以前の様相は、片瀬五郎さんのブログに素晴らしいリサーチ記事があります)

しかも
石仏たちの更に上、山上では、バックホーが2台、ガンガン作業をしています。
新たな開発のようです。

そんな様子を眺めながら
若冲さんが五百羅漢の制作で目指したのは、
阿羅漢(ブッダに付き添った500人の弟子:略して「羅漢」)に託した、
親しい人々、その他大勢の人々の供養だったのでは
という思いが過りました。

若くしてお父様(1738年)を亡くし、
メンターの一人・高遊外(売茶翁)(1763年没)や末弟(1765年没)、
後輩である池大雅(1776年没)、曽我蕭白(1781年没)、
お母様(1779年没)や同輩の与謝蕪村(1783年没)との別れに
天明の大飢饉(1783年)と京都を焼き尽くした天明の大火(1788年)。

きっと500では足りず、1000体に達したのかもしれません。
ブッダの一生パノラマ、という事業構想実現という表向きの裏側には
もっと「人としての魂」が燃え続けるようなモチベーションがなければ
10年以上の歳月と私費を投じ続けることなど、
できないのではないかと、思ってしまいます。
若冲さんを
錦の店(たな)、稀代のクレバー経営者だったと思っている
(このお話はまた別の場所で)、
わたしとしては、そうあって欲しいのですが。

また、素材は
紙よりも、長く静かに、土に却ってゆけるように、
石という選択だったようにも思えます。

では、なぜ、この地だったのか。


これは、若冲さんのお墓から見える風景ですが、
お隣の京都市深草霊園の、恐らくは若冲さんのアトリエがあったであろう場所に
上ってみた眺望は、洛中(京都中心地)パノラマでした。
若冲さんの生家のあった錦の店(たな)・現錦市場から、
ご両親や兄弟の菩提寺・宝蔵寺・現ラウンドワン裏はもちろん、五条まで見渡せるのです。

腹に落ちた気がしました。
こうしたフィールド・ワークというか、フィールド・ハンティング特有の
あまりにも感覚的な「感覚」でしかないのですが。
「ここじゃなきゃ、だめだったんだろうな」
そんな、
腹に落ちた感を頂けた、今回の「あるちふ」。

再度、
若冲さんのお墓に手を合わせ、庫裏にいらっしゃるご住職のお母様にご挨拶をして
今が旬の「筍ごはん」をいただきに、
一路、洛中の隠れ家へ。

0 件のコメント:

コメントを投稿